由緒
弥生時代

垂水神社の本殿の後方やや西側の境内地には弥生時代の住居跡があります。昭和48年から51年に吹田市教育委員会と関西大学により発掘され、竪穴式住居跡や掘立柱建物跡、焼土坑、甕棺墓などが確認されております。典型的な高地性集落で、この地が、2000年前から人々が暮らす場所であったことがわかります。※現在は埋め戻されています。
飛鳥時代~奈良時代

孝徳天皇(ご在位645年~654年)の御代、この地の領主である阿利真公ご祭神である豊城入彦命の子孫)が、干ばつに苦しむ難波長柄豊碕宮に、懸け樋を作って当地から水を送り、その功績をたたえられ、「垂水公」の姓を賜り、垂水神社を創始しました。 このことは 『新撰姓氏録』の右京皇別の項に記載されております。(写真は垂水の滝)
「豊城入彦命四世孫賀表乃真稚命之後也。六世孫阿利真公。謚孝徳天皇御世。天下旱魃。河井涸絶。于時阿利真公。造作高樋。以垂水岡基之水。令通宮内。供奉御膳。天皇美其功。使賜垂水公姓。掌垂水神社也」(新撰姓氏録)
これを意訳しますと、次のようになります。
「豊城入彦命の数世の御孫阿利真公、孝徳天皇の御宇、天下旱魃し河井涸絶せるに際し高樋をつくりて垂水岡基の水を長柄豊崎宮に通じ御膳に供すれば天皇その功を賞し垂水公の姓を賜いて本社を掌らしめ給えり」
『新撰姓氏録』とは、平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑のことです 。 おそらくこの時より以前からこの地では祖先神である豊城入彦命を祀る何らかのお社があり、また当然ながら都に送れるほどの水量のある滝があり、人々によって神聖な空間として大切にされていたのでしょう。また千里丘陵の南端に位置する当社は、上町台地に位置する難波宮とはほぼ南北の直線上にあって、距離にして約15㎞ですので、難波宮から滝が見えていたとも考えられます。参照→垂水の滝と万葉の歌碑のページ
平安時代

祈雨の神としてしばしば朝廷からの奉幣にあずかりました。
当時の雨乞い神事に奉幣を受ける神社は、他に京都の貴船社・松尾社・大阪の住吉社などでした。
祈雨のたびに朝廷から神階が授けられ、当社の社格は従五位下から従四位下まで上がっていきました。
平城天皇の時、封戸の寄進を受けて、ご神領を賜りました。 醍醐天皇のとき作られた延喜式では「名神大社」とされ、臨時祭祀の中の祈雨を司る神社とされました。
さらに天皇の即位儀礼である大嘗祭にさきがけておこなわれたといわれる「八十嶋祭」において、朝廷より奉幣があり、祭料布が下賜されていました。これを証明するかのように、近年、神崎川畔の五反島遺跡から八十嶋祭に使用されたと思われる古鏡(吹田市立博物館蔵)が発見されています。
鎌倉時代~室町時代~戦国時代

桓武天皇の皇女、布勢内親王の領地として寄進された当地は、やがて垂水庄、垂水牧として、東寺や春日大社、あるいは摂関家の有力な荘園となっていきます。そのように領主は変わっても、この地に暮らす人々からの信仰は変わらず、15世紀初頭ごろの文書には当社の「燈油」や「神楽(かぐら)のための神領田の存在が記録され、これは戦国時代まで続いていたと文書に記されています。
江戸時代

天和3(1683)年、氏子・崇敬者の熱意で本殿の造営が、大坂の宮大工によって行われました。当時の氏子と宮大工が取り交わした証文が神社に伝わっています。この社殿には皇室の菊花紋と徳川家の葵の紋が飾られていました。
一の鳥居の創建もこの頃(元禄5年以前…1692年以前)と思われます。
現在社務所西側にある手水舎は、明治時代までは拝殿前にあったもので、こちらは元禄時代(1688~1734年)に奉納されたと刻まれています。
不動社参道の小滝の川にかかる石橋は御滝橋と言い、垂水村の大工幸助が延享3年(1746年)に奉納したと刻まれています。
現在も夕刻になると灯りがともる参道北端の燈籠は明和元年(1764年)に建てられました。
拝殿前の一対の狛犬は享和2年(1802年)に垂水村から大坂の薬種商吉野家に養子となった吉野五運が実家の一族とともに奉納しました。台座には雷の如き眼光で宮を衛ると書かれています。
同じく19世紀初頭には、京都の門跡寺院、宝境寺宮から「垂水大明神」の掛け軸を頂戴し、これを元に扁額を二面作成しています。一面は神社に伝わり、もう一面はいつ頃からか垂水の旧家に保存されていましたが、平成23年に神社に返納されました。領主森氏はご神鏡を奉納しています。
このように地域の崇敬は江戸時代を通して厚いものがありました。
また、1796年~1798年に刊行された摂津名所図会には、垂水の滝について「清冷甘味、諸病を治す」と紹介されています。
明治~現代

明治になって社格は「郷社」となりました。これは「無格社」、「村社」の上に位置するものです。
廃仏毀釈によって西側に隣接していた栽松寺が無くなり、かわって不動明王をお祭りする不動社が建立されました。ここでは今も護摩焚き神事が行われています。
昭和49(1974)年、古くなった社殿を建て替えるため、氏子によって造営奉賛委員会が設立され、本殿、拝殿の造営がなり、盛大に正遷宮の祭典が行われました。
その後も、境内整備は続き、末社の造営や擁壁工事などが行われ、万葉歌碑も建てられました。氏子・崇敬者が守ってきた鎮守の杜は、吹田風物百選や大阪ミュージアムなどにも登録され、現代にも大切にされるものとして位置づけられています。
そのような中で平成23年に境内東側の森を民間から買い取った不動産業者が、本殿を見下ろすマンション建設を計画しました。美しい森を子孫に残したいという氏子・崇敬者が【垂水の森を守る会】を結成し、13000余人の署名と奉賛金を集めて、3年にわたる反対運動を展開しました。そしてついに、業者から神社が当該森を買い取るという形で解決にいたりました。誇り高い垂水の氏子・崇敬者の思いは石碑に刻んで未来に語り継がれます。
万葉集の歌

当社の境内に万葉の歌碑があります。
志貴皇子の作られた有名な歌です。
万葉集1418
石走る垂水の上の早蕨の
萌え出づる春になりにけるかも
~石激 垂見之上乃 左和良妣乃
毛要出春尓 成来鴨
このお歌はこの地を詠んだものとして、平成のご即位記念に氏子の皆さまのご奉賛で建立しました。
このお歌の歌碑は、実は全国にあります。といいますのも、垂水という地名も垂水神社もあちこちにあるからです。(鹿児島県、岡山県、兵庫県、島根県などです)もともと垂水とは字の通り、水が垂れるところですから、日本中にそういう場所はあるわけです。
そして垂水があるから、その土地を垂水と名付けることも当然といえば当然なのです。ただ、この皇子のお歌がどこの垂水を詠まれたものか。これには諸説あります。特定の地名ではなく、普通名称としての瀧の意味で用いられたという説もあります。
では、なぜ垂水神社では、このお歌を当地で詠まれたと考えているのでしょうか。
その理由は3つあります。
①実は万葉集には垂水を使った歌がほかにもあります。
下の二首です。
万葉集3025
石走る垂水の水のはしきやし君に恋ふらく我が心から
~石走 垂水之水能 早敷八師 君尓戀良久 吾情柄
万葉集1142
命をし幸くよけむと石走る垂水の水をむすびて飲みつ
~命 幸久吉 石流 垂水々乎 結飲都
このうち、1142の歌は、1140、1141の二首とともに攝津作として載っています。
万葉集1140
しなが鳥猪名野を来れば有馬山夕霧立ちぬ宿はなくて
~志長鳥 居名野乎来者 有間山 夕霧立 宿者無而
万葉集1141
武庫川の水脈を早みと赤駒の足掻くたぎちに濡れにけるかも
~武庫河 水尾急嘉 赤駒 足何久激 沾祁流鴨
攝津は旧国名で、現在表記では摂津ですが、大阪府北部と兵庫県南東部の地域です。
1140の歌には、猪名野と有馬という地名が入り、1141には武庫川という地名が入っています。ですから1142にも地名が入っていると思われます。とすると、垂水が地名ということになります。
そして摂津で垂水という地名は当地だけなのです。神戸市垂水区の所属する場所は、旧国名では播磨となります。摂津は畿内で、播磨は山陽道です。
延喜式でも、当社は摂津の垂水神社とあり、神戸市の垂水区にある神社は播磨の海神社となっています。
ですからこの1142の歌は当地で詠まれたものとほぼ確定できるのです。
垂水の水が命を長らえ幸せになるという言い伝えがすでにあったことがうかがえると同時に、万葉集の時代には、垂水を摂津の地名と考えていたことがわかります。ですから、志貴皇子の歌も同様のものと考えられるのです。
②志貴皇子の父君は天智天皇です。
天智天皇といえば、大化の改新の立役者であります。
そして大化の改新で即位されたのが、垂水神社をお祭りせよと命ぜられた孝徳天皇です。
したがって、垂水神社には当時皇太子であり、実質的な政権担当者であった天智天皇も大きくかかわっておられたのは間違いありません。
時の都は難波長柄豊崎宮でした。
こちらも摂津の国にあります。
この宮が旱魃で困ったときに、垂水から水をお届けしました。
このときの功績で、当地の領主であった阿利真公は垂水公という名を賜り、垂水神社をお祭りするよう命ぜられます。
実際、地図で見ますと、当社は難波宮のほぼ真北にあたります。
直線距離で約10㎞、歩いて3時間くらいです。
昭和50年代までは、神社境内から大阪城天守閣が見えました。
古代なら難波宮から千里丘陵がのぞめたでしょう。
その崖を勢いよく落ちる垂水も見えたかもしれません。
この時代の皇族や貴族にとって垂水の水は命綱ともなった大切なものでした。垂水のことも、それを祭る神社のこともよく知られていたと思われるのです。

③平安時代初期、当地は布勢内親王のご領地でした。
志貴皇子ご自身は即位されることはありませんでしたが、そのお子は光仁天皇で、この天皇は京都に都を遷された桓武天皇の父君です。
そして桓武天皇の皇女布勢内親王のご領地に当地は指定されていました。
志貴皇子のひ孫の内親王です。
なにがしかご祖先のご縁があったことがうかがわれます。
下の系図の太字の方が垂水神社と縁のある方です。
|ー孝徳天皇
|ー皇極・斉明天皇-天智天皇ー志貴皇子ー光仁天皇ー桓武天皇ー布勢内親王
~最後に~
下の左の写真はは明治時代の瀧です。
石の間を走っています。
江戸時代の燈籠が当社にありますが、この水で新田開発をした記念に奉納されています。
明治よりずっと以前、飛鳥時代の水量はどれほどだったかと想像されます。
右の写真は現在です。
いつまでも守り伝えたいものです。




古い写真に見る神社
①本殿と拝殿(明治40年頃)

明治40年頃の本殿と拝殿です。
手水舎が見えます。今は石段下にありますが、この頃は、石段の上にあったことがわかります。本殿と拝殿の間の弊殿は建物がなく、渡し板のような形になっていました。江戸時代の建物ですので、明治時代には何度か屋根替えや改築を行っています。
②本殿と拝殿(大正時代)

大正時代の本殿と拝殿です。
大正2年と6年にかなり大がかりに修繕しました。手水舎が石段下に移築され、拝殿には欄干が増築されて間口が広くなりました。
③拝殿(明治40年頃)

明治時代の拝殿です。
①と同時期です。拝殿左側の神饌所は、現在も倉庫として残っています。また狛犬も拝殿前に今も変わらず鎮座しています。着物姿の子どもたちが写っています。明治12年の記録には小学校の生徒数男子42名 女子19名とあります。
④拝殿(大正時代)


大正時代の拝殿です。
②と同時期です。③に比べて構えが大きくなっています。狛犬にはよだれかけがつけられています。信者の方が奉納される習わしは今も変わっていません。
⑤拝殿(現代)

現代の拝殿です。
昭和49年に造営されました。屋根が瓦から銅板になりました。多くの奉賛者の名前が玉垣に刻印され、境内を囲んでいます。
⑥一の鳥居(明治時代)楠明神社


治時代の一の鳥居です。
参道入り口右手にお茶屋がありました。この前の道が、吹田と豊中を結ぶ道だったので、そこを通る人やお参りの人が立ち寄っていました。うっそうとした松の木が茂り、左右は水田でした。

現在の一の鳥居です。住宅が迫り、松の木が小さくなりました。
⑦垂水の滝(明治時代)


垂水の滝です。
千里丘陵の開発がされていなかったので、ほとばしるように水が落ちています。近隣一円の水田に水を送っていました。
⑧高樋のあと

高樋址です。
孝徳天皇の御代に、高樋をかけて水を難波宮に送った址が、明治時代まではありました。
⑨楠社と小滝

楠社と小滝です。
御旅所から遷座された楠社です。明治初期に神社でお祭するようになりました。小滝のすぐ脇にあります。
⑩社務所

明治時代から昭和40年代までありました。水道がなく、滝の水と井戸を使用していました。総代会議に参加される総代さんが、広芝から田んぼのあぜ道を通って提灯を持って歩いてこらていたと聞きます。
⑪明治42年境内図

明治時代に刊行された案内図です。基本的な形は変わっていませんが、石段や鳥居などに若干の違いがあります。説明書きには、滝の水が甘味であること、浴する人が多いことが書かれています。